荒神山観音寺とは
高神山 観音寺 (こうじんやま かんのんじ・Koujinyama kannonji)は、812年に弘法大師がヤマトタケルを仏像として祀ったのがはじまりと言われていますす。
この寺の裏山で起きた任侠史最大の大出入りと言われる「荒神山の喧嘩」が講談や浪曲などで「血煙荒神山」として取り上げられたことから、全国に荒神山として名が知られるようになりました。
荒神山観音寺の境内には吉良の仁吉の碑、その仁吉を倒したとされる火縄銃や弾痕が鐘楼堂に残されています。
荒神山の喧嘩とは
荒神山の喧嘩は,江戸時代末期に神戸の長吉(ながきち)と,桑名の穴太徳(あのうとく)の二人の縄張り争いから,この観音寺の裏山で200人前後の身内を投入し、入り乱れての死闘をつくしました.
神戸側の助っ人であった吉良の仁吉が討たれた事より、かたき討ちのために兄弟分の清水次郎長が、穴太徳たちに決戦を挑みましたが、両者が謝罪したため和議となりました。
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荒神山観音寺へのアクセス
鈴鹿川の支流、椎山川をさかのぼり、調整池から丘を上がると境内が広がります。
住所:〒513-0011 三重県鈴鹿市高塚町1777
最寄り駅:JR加佐登駅から2.3㎞
荒神山観音寺を巡る旅ランウォーク
伊勢西国三十三所観音を走り歩こう(鈴鹿編)(27㎞)
三重四国八十八カ所霊場を走り歩こう(鈴鹿西部編)(33㎞)
鈴鹿・花と歴史の遊歩道(12㎞)
荒神山観音寺の見どころ
荒神山の喧嘩の舞台
賭場の縄張りを巡る浪曲「荒神山の喧嘩」の舞台である荒神山は山ではなく、お寺の山号でした。
この寺の山号はもともとは神事山と称しましたが、高野山の一字をもらい高神山、さらに荒神山と書くようになりました。
江戸時代末期のこの喧嘩は寺の裏山に200人前後が入り乱れての死闘で、鐘楼堂の柱には「荒神山の喧嘩」の際、鉄砲の流れ弾による大きな穴がぽっかり開いています。
このあたりは幕府領、神戸藩領、亀山藩領の接するところで、役人の手入れがあるときに都合がよかったなどの理由により、大都会でもないお寺で、境内に多くの人が集まれる賭場が開かれていたことが、この大げんかの背景にありました、
そして喧嘩のあった当日、4月8日は観音様のご縁日で、この日に合わせて博徒たちが集まっていました。
荒神山の喧嘩で28歳の若さで亡くなった吉良仁吉をしのぶ石碑が、浪曲界の重鎮・広沢虎造によって建立されています。
本尊の十一面観音は50年に一度開帳される秘仏
本尊の観音様は50年に一度の秘仏で1987年の開創900年にご開帳され、右手に錫杖、左手に水瓶(すいびょう)を持つ十一面観音です。
本堂に安置された重厚な厨子は、彩色や彫り物が施された精緻な造りで、四方の軒を支える彫り物は邪鬼を配しています。
本堂にはほかにも日天、月天、地天の銅仏を安置されています。
奥の院には竈の神様が
奥の院には不浄を忌み火の清浄を愛するところから、竈の神様として有名な三宝荒神が安置されています。
春日局ゆかりの鐘楼堂
寺伝によると1640年、出羽三山(山形県)の湯殿山(ゆどのさん)行者・順海が伊勢神宮へ参る際に、眼病を患ったところ、夢告(むこく)により、この寺の十一面観音に祈願すると治癒したため、寺を再興したとされています。
この順海上人の異母姉にあたるのが江戸時代の三代将軍・徳川家光の乳母・春日局で、その春日局が寄進した梵鐘には家康の戒名、秀忠の名も刻まれており、ほかにも仏像4体を寄進しています。
高野山から一字を受けて高神山へ
子のお寺は法陵律師がこの地で見出した十一面観音を安置するためにお堂を建立したと伝えれています。
当初は神事山と称していましたが、1691年に高野山の末寺となり、高野山の一字を受けて高神山へと改めました。
その他のパワースポット
境内の中心に大きなシイの木があり、パワースポットになっています。
春には桜やハンカチの花、秋には紅葉と四季折々の花木を楽しめます。
荒神山観音寺周辺のおすすめスポット
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